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にっしんの文化財


ID番号 N50  更新日 平成28年2月6日

日進の文化財を訪ねてみよう

 現在の私たちの社会や生活は、祖先の営みの積み重ねの上に形成されたものです。市内には、先人たちが受け継いできた大切な文化財や民俗風習が残されています。

市指定文化財

臥龍の松(岩崎町小林妙仙寺境内):樹齢約400年

臥龍の松 岩崎町小林妙仙寺境内の写真

指定年:昭和55年指定

●高さ:約6.7メートル
●幹まわり(地際)約2.5メートル
●枝張(東西)約11.5メートル、(南北)約12.3メートル

 黒松の中では、市内唯一の巨木であり、その美しい姿と、歴史的環境に育まれた銘木として天然記念物に指定されました。『日進村誌』(昭和31年)には、枝張り約18メートル四方、樹齢250年と記され、平成8年には松の腐食部分等の治療が行われました。この際の樹木医診断によれば、この松が境内に植樹(あるいは自生)されたのは、当地において妙仙寺が建立された時期(室町時代後期)までさかのぼるものと思われ、樹齢はおよそ400年をこえると推定されます。
 「臥龍(がりゅう)の松」という名称は、幹や枝の張り具合が、まるで龍が臥(ふ)してからだをかがめている姿にたとえられることから名付けられたようです。

 

白山第1号墳(本郷町宮下 白山宮境内):古墳時代後期(6世紀)

市指定文化財になっている白山第1号墳の写真

指定年:昭和56年指定

 平野部に孤立した丘陵の斜面(南側)下手に位置する直径約14メートルの円墳で、崩壊が進んだ状態にありましたが、昭和55年に発掘調査が行われ、金環・鉄製の直刀・装飾須恵器等が出土しました。その後、周辺地域に分布する同時期の群集墳を参考に、横穴式石室の一部が復元され、一般に公開されています。

 このほか、昭和60年,岩崎城跡発掘調査の際、偶然に発見された岩崎城古墳(6世紀)の横穴式石室も同様に復元されて見ることができます。これらの古墳の遺物は、岩崎城歴史記念館(※)において展示しています。

 なお、現在のところ市内では、弥生時代以前の遺跡は発見されておらず古墳が最も古い遺跡です。(昭和56年指定)

天地社旧本殿(赤池町屋下 天地社境内):江戸時代

天地社境内と江戸時代に作られた市指定文化財になっている置物の写真

指定年:昭和58年指定
※写真右側 【市指定文化財】木造狛犬:宝永2年(1705年)

 昭和54年、愛知県教育委員会が実施した愛知県近世社寺建築調査の結果から市内最古の建造物とみなされています。

 旧本殿は、神社建築の中でも全国的にみられる一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の形式がとられています。再建されたことをしめす棟札が現存しており、元禄2年(1689)、赤池村の龍淵寺支配のもと、村の氏神社として造営されました。屋根は柿葺(こけらぶき)でしたが伊勢湾台風(昭和34年)後、その上にトタンがかけられました。

 本殿の新築計画にともない境内の南東へ移され、平成元年、社殿の保管を図るために保護覆屋が設置されました。縁に配置されていた木造狛犬は、現在岩崎城歴史記念館で保管されています。

 

妙仙寺山門(岩崎町小林 妙仙寺境内):江戸時代

妙仙寺山門の写真

指定年:平成3年指定

 三間一戸(さんげんいっこ)※の楼門(二階造りの門)の形式をとった山門です。建立の由来等を記した棟札から寛政5年(1793)、第十六世千巌(せんがん)和尚の代に再建されたものとされ、数度の改修を受けながら今日に至っています。第二十世元浄(げんじょう)和尚の代(幕末の頃)に赤穂四十七士の姿が描かれた天井画が張られましたが、昭和38年に行われた修理により、新しいものと替えられ、当初の天井画は、当寺において保存されています。

 なお、当寺は一説に天文6年(1537)、岩崎城主・丹羽氏清が、当時折戸町にあった長松寺を菩提寺として移し、寺号を改めたものといわれ、境内には丹羽氏清夫妻の墓標(地蔵菩薩石像)をはじめ一族関係者の墓石群があります。(平成3年指定)

※三間一戸・・・正面の柱間が三つあり、その内の一箇所に扉がある建物のこと。

 

岩藤天王祭の山車(岩藤公民館内):明治24年※

岩崎天王祭で引かれる山車

指定年:平成21年指定

●高さ520cm×幅180cm×長さ270cm。

外観は二層で、簡素な入母屋造の障子屋根を4本の柱で支え、2階は広間となっており、縁には高欄。山車をひく岩藤天王祭は、昭和12年以来、中断していましたが、昭和55年に山車を修復し、翌年からお囃子とともに復活し、以降、毎年7月下旬に岩藤町で開催されています。

※現在お祭で引かれている山車は、昭和55年当時に修復したもの。保存されている旧棟木には、明治24年8月という制作の年月と寄附者71名の氏名、造作した地元大工の加藤浅重らの名が墨書されています。

 

香久山古窯(香久山五丁目 すずかぜ公園内):平安時代(9世紀)

香久山古窯の写真

指定年:平成21年指定

 昭和57年、株山地区土地区画整理事業にともなう事前の発掘調査により、その遺構が天井部を除き、ほぼ完全に窯体が残存していることが判明したことから、現在、保護覆屋を設置し、見学が可能(公開期間は毎年5月から9月)となっています。

 全長約8メートル、幅約2メートル、分焔柱を有する窖窯(あながま)で丘陵斜面東側に築かれています。

 名古屋市東方の丘陵地帯、約20キロメートル四方には1,000基を超えると推定される猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)が分布しています。この窯跡は、このうちの一つで、須恵器、灰釉(かいゆう)陶器が生産されていました。これらの窯跡を一つ一つ調査することにより、東海地方における古代窯業史の実態が明らかにされてきています。現在、香久山古窯の出土遺物は、岩崎城歴史記念館で展示しています。

聖人塚(浅田町東田面):時代不明

聖人塚の写真

指定年:平成25年指定

 昔、ある僧が、鈴(れい)をもち、「音がしなくなったら、入定(にゅうじょう・死去)したと思ってくれ」と言い残して土中へ生きながら入ったという、その伝説の地がこの聖人塚(しょうねづか)です。当地には、「六部(ろくぶ)のしょうがねもち、チンチン鉦叩け」という童謡がのこっていました。「六部」とは、各地の寺社をめぐり、お経を納めて歩いた僧のことです。

 これと同様の伝説をもつものに、赤池5丁目の「お塚様」があり、ここでは子供を守ってくれるとか、できものを治してくれるなどとも言い伝えられています。

 なお、現存するこの他の塚に、藤島町相山に享保14年(1729)の六字名号(「南無阿弥陀仏」)石塔が建てられた念仏塚があります。

 

 

その他の市内の文化財

結界石(赤池町中島 霊鷲院境内):江戸時代

結界石の写真

 結界石は、寺社の門前に立てられるもので、多くは仏教における一種のきまりが刻まれています。この結界石は、表に「不許葷酒入山門」と刻まれています。「葷(くん)」とは臭気・辛味のある野菜(肉を含む)のことで、これらと酒は山門に入ることを許さないという意味です。銘文から霊鷲院(りょうじゅいん)の開山の翌年、享保15年(1730)に建てられたことがわかります。

 市内にはこのほかに、岩崎町妙仙寺(みょうせんじ・文化6年・1809)、折戸町宝泉寺(ほうせんじ・天保6年・1835)、及び赤池町龍淵寺(りょうえんじ)の門前にあります。

 

椎の木(ツブラジイ)(赤池町西組 龍淵寺境内):樹齢約400年

龍淵寺境内の椎の木の写真

●高さ 約14.0メートル
●幹まわり 約3.6メートル
●枝張(東西)約11.8メートル (南北)約12.5メートル

 天正元年(1573)、龍淵寺(りょうえんじ)が赤池城主・丹羽秀信により創建されたとき、植えられたものと言い伝えられ、樹齢400年を超えると推定されています。もとは、境内の塀に沿って5樹ありましたが伊勢湾台風の被害に遭い、現在はこの1樹のみになっています。

 

日進変電所・防空壕(赤池町北山):昭和17年ごろ

日進変電所・防空壕の写真

 日進変電所は、天竜川(静岡県)方面で発電された電気を名古屋港周辺の軍需工場等へ送電する重要な中継施設として昭和11年1月に建設されました。その後、名古屋初空襲(昭和17年4月18日)があったことから、配電盤を死守する職員に何かあった場合、すぐに代われるよう予備要員が待機するために防空壕がつくられ、当時は変電所本館に隣接して同様のものがもう1基ありました。
 その構造は、長さ8.5メートルの半地下式で、入口は4箇所あり、屋根は爆風を避けやすいようにアーチ状になっています。また、鉄筋コンクリート製の強固なつくりは名古屋市近郊では、非常に珍しいものです。

六字名号石塔(米野木町丸山):江戸時代  ※写真右側

六字名号石塔の写真

 石塔に刻まれている「南無阿弥陀仏」は、その字数から六字名号といいます。石塔は、村に住む信者の願いにより建てられるもので、石仏がその姿を造形で表現するのに対し、名号石塔は文字で仏を表しています。市内の石塔では、この元禄4年(1691)建立のものが最古の部類になり、同所にはもう一つ、宝暦5年(1755)の石塔と、同8年(1758)の青面金剛石像が祀られています。

 市内ではこのほかに、岩崎町七ツ塚の六字名号石塔(元禄4年・1691)、梅森町西田面の観音称号(「南無大慈大悲観世音菩薩」)石塔(元禄9年・1696)があります。 

 

馬の頭(米野木地区)

町中を周回する献馬隊

 「馬の頭(馬の塔とも書く)」とは、一般に「オマント」と言われ、秋の祭礼に標具(だし)等で飾った献馬を社寺に奉納する行事で、かつては、市内各地で行われていましたが、現在では米野木町小馬場の神明社のみとなっています。

 

棒の手(浅田地区)

毎年奉納される棒の手

 「馬の頭」につきものだった、武芸にならう芸能「棒の手」。の手を演じる若者が、献馬と共に行動し、社寺奉納への行列がつくられました。

  かつては、浅田町の見当(けんとう)流と折戸町の検藤(けんとう)流・起倒(きとう)流がありましたが、現在は、浅田町の見当流のみが保存され、毎年10月上旬頃に浅田町の八剣社に奉納されています。

 

石橋(米野木町阿弥陀前):時代不明

石橋の写真

 諺(ことわざ)にも使われる石橋は、古いものほど構造が単純で、特に年代を知ることのできる銘文もなく、時代を知ることが難しいものです。

 この石橋のある路地は、弘化(こうか)4年(1847)の「米野木村村絵図」を見ると「名古屋街道」と記されており、現在の県道名古屋・豊田線にあたる街道でした(現在は行者堂付近で途絶えています)。そこには、用水も表記されていることから、当時からここに小さな橋が架けられていたと思われます。現在5本の切石が架けられていますが、1本は後に新しく継ぎ足したもので、同様の石橋は藤枝町の平子霊園入口にあります。

石鳥居(本郷町宮下 白山宮境内):江戸時代

石鳥居の写真

 もとより鳥居は木製でしたが、江戸時代以降石造りのものが普及してきました。この鳥居は、寛文13年(1673)の建立で、文献から石工の名や石材が太郎場(たろば・現豊田市内)から切り出されたものであることがわかっています。鳥居の種類としては、春日(かすが)鳥居の特徴を備えています。

 江戸時代のものとして市内に現存するのは、赤池町の天地社旧本殿前に宝暦13年(1763)の石鳥居があります。なお、木造の鳥居は梅森八幡社にあります。

 

岩崎城跡・空堀:室町時代末から安土・桃山時代

岩崎城跡・空堀の様子

 昭和60年に行われた発掘調査後、城址公園として整備されたことから遺跡の景観は大きく変わりましたが、本丸周辺の空堀・土塁の様子はよく保存されています。

 岩崎城初設の時期は明らかではありませんが、享禄2年(1529)、織田信秀(信長の父親)の属将荒川頼宗が守る岩崎城を三河の松平清康(徳川家康の祖父)が攻め落とした記録に始まります。その後天文7年(1538)、隣村本郷に城館を構えていた丹羽氏の居城となり、慶長5年(1600)、4代目城主氏次の三河伊保(現豊田市保見町大字上伊保)への転封と同時に廃城となるまでの約60年間、その領地支配の拠点となっていました。天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの際には、長久手がその戦場となる前哨戦がこの岩崎城で行われ、城兵約300人がほとんど討死したという歴史を有しています。

 発掘調査の結果、城は何度か改修されたことが判明し、空堀も薬研(やげん)堀と箱堀の2種類が確認されました。(薬研堀は、その断面が逆三角形で、箱堀は、方形のもの)。本丸西側の堀(幅約13メートル・深さ3メートル)の調査では、当初の薬研堀から箱堀へと改修されたことがわかりました。

関連情報

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