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歴史の面影残る 大字蟹甲新田


ID番号 N21018  更新日 平成28年10月1日

「がんのこ」で暮らす3人の日進人に聞く

 「そこでおんぶされとる赤ん坊はたぶん私だよ。車が止まっている所がうちの店で、衣料全般からたばこ、塩など何でか売っていたよ」
 蟹甲町で学生衣料を販売する志みづ屋三代目・志水重哉さん(63)は、一枚の写真を懐かしそうにのぞき込んだ。

写真
蟹甲新田の街並みを望む(昭和28年頃)

 昭和28年頃、蟹甲交差点付近で撮影した貴重な写真だ。東方面に走る名鉄バスを眺めているのだろうか。かつて、飯田街道沿いには、農協や郵便局のほか、電気や金物、魚、青果、自転車、下駄、玩具、製材など多くの商店が建ち並び、村の中心街として栄えた。
 日進町になってからは、木造の街路灯が通りに並んだという。蟹甲交差点付近には大正8年の道路法で各市町村に1個ずつ設置された「道路元標」が残り、今なお歴史の面影を感じさせてくれる。

写真

古い写真を見て話を弾ませる(左から)中川さん、濱島さん、志水さん

 濱島金物店の濱島昭之さん(70)は「店がようけあった。近所にテレビは豆腐屋さんの一台しかなく、夕飯をちゃっと食べて、10人以上が集まって、力道山や相撲を見た。まるで映画館みたいだった」と目を輝かせる。
 明治末から昭和10年頃まで、通りには荷馬車が盛んに行き交った。昭和9年ごろには、名古屋・足助、名古屋・挙母間のバスが一日数回往復していた(愛知郡日進村経済更生計画書)。
 昭和30年当時、車はまだ珍しかった。村にある乗用自動車はわずか4台。現・岩崎町の志水医院が購入した車が第一号だとされ、志みづ屋にも車があった。
 「蟹甲に出るのはあこがれだった」と話す中川不動産の中川清さん(70)は、20代だった昭和45年に折戸から蟹甲新田に移り住んだ。自宅を建てる前は、派出所と消防の詰所があった。「小学生の頃はスポーツセンターの辺りの西池でよく泳いだ。すぐ南にすり鉢池もあった。急にドボンと落ちるので近づかなかったよね」
 「そうだったね。今の市民会館のある笠寺山は山のまま。夜は一本道しかなくて真っ暗だったね(笑)」(濱島さん)
 日進村の中央に位置する蟹甲新田は、江戸時代には藤枝村の枝村だった。明治39年に日進村役場がこの地に置かれ、昭和33年には町制が敷かれた。翌34年に伊勢湾台風が襲来し、町にも未曾有の被害をもたらした。
 その後、県道名古屋豊田線や瀬戸大府東海線の整備が進み、町は昭和50年代から平成初期に新庁舎や町民会館などを建設。平成6年には日進市が誕生し、スポーツセンターも完成した。
 市制施行時に大字蟹甲新田は蟹甲町となった。「昔から『かにこう』がなまって『がんのこ』と言っている。われは『がんのこ』だよな、なんて調子で話していたなあ」(志水さん) 「水がきれいでサワガニが出るっていう話も聞いたことがある」(濱島さん)と、地名の由来にも諸説がありそうだ。
 今年7月には、かつて八百屋だった建物が改装され、カフェがオープンした。昭和のレトロ感を味わえ、店では、日進市初の酒蔵を始める計画だ。かいわいのにぎわい再生に期待が寄せられている。
 蟹甲町周辺は市役所をはじめ公共施設が多く、蟹甲交差点付近は交通量が多い。かつてのにぎわいを創り出したい思いは、今も変わらない。3人は口をそろえてこう語る。「道路を含めたこの辺の開発について、皆が同じ気持ちを持って本腰を入れてくれたらうれしいなあ」(広)

かつての八百屋

交通量が多い蟹甲交差点付近

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